まあまあ波瀾万丈な人生 15
こうして、大好きだった空手をやめることになってしまいました。本当に好きだったので、何もやる気にならず、ボーッとしていました。
今、思うとあの頃の私は、自分のことしか考えていなくて、周りの人のことをもっと考えてあげるべきだったと思います。
もう、先生とは、関わり合いたくないですが、先生には、感謝しています。中途半端な自分がここまで強くなれたのは先生のおかげだし、死ぬつもりだったので、あまり恐怖しなくなりました。
それから、空手の先生は、この2年後ぐらいに破門になりました。子供でも容赦ないところがあったので、陰で捌いていたみたいで、それがバレて大分問題になったみたいです。
昔の侍は、死人といって、戦に行く時に、自分は死んだ人間だと思い、死への恐怖心をなくしていたらしいです。
私も、あの首を吊るつもりだった日に、自分は死んだものだと思って、毎日、生きるように心がけています。あの時、人殺しにならず、自分も死なずにすんでよかったです。
こうして、私の恩師となる、おじいさんとおばあさんと、一緒に暮らすことになりました。
私が、隠れていた所は、ものすごい山奥で、野生の鹿とか、イノシシとかが、よく出てきます。店も一軒しかなくて、賞味期限の切れたお菓子とかが売っていました。携帯電話の電波も入りませんでした。
おじいさんは、元学校の校長先生で、おばあさんもとても優しい人でした。息子の会社の従業員とはいえ、よく知らない男を一緒に暮らせてくれたと思います。
おじいさんは、いつもお前は素晴らしい子だから頑張りなさいと言ってくれました。『私が、素晴らしいだって、何を言ってるんや、このじいさんは』と、最初は思っていたのですが、いつも言われるので、だんだん気持ちよくなってきました。
このおじいさんは、元学校の校長先生ということで、村の顔役みたいになっていて、いろいろな人のお世話をしていました。
この村には、酒乱のおばちゃんが住んでいました。田舎なので、酒を飲むぐらいしか楽しみがないようで、人の家に入って、酒を盗んだり、じいさんが、お金に困ってるだろうからと、組合のお金を集める仕事を紹介してあげたら、お金をくすねたりしていました。
この人は、旦那さんがなくなっておかしくなったみたいで、遺族年金を貰っていたみたいなのですが、全部、酒代に使ってしまい、娘が一人いたのですが、高校に行かせてあげられませんでした。それで、おじいさんが、尽力して、施設から、学校に行けるようにしてあげて、高校に入学できるようにしてあげました。そしたら、このおばちゃん、一升瓶もって、娘を返せって乗り込んできました。
私は、じいさんに『あんな恩知らずなオバハンほっといたらいいやん』と言いました。すると、じいさんは、『かわいそうやろ』と言って、野菜をあげたり、いろいろ世話をしてあげていました。
私は、世の中にこんな人いるんやなって思いました。この辺りから、ずーっと自分の幸せの為だけに生きてきた、私の人生感が変わってきました。
そして、こんな人になりたいなと思うようになりました。つづく
まあまあ波瀾万丈な人生 14
こうして空手にどっぷりハマっていっていたのですが、子供の指導は、嫌々やっていました。
稽古が終わってからも、家に帰らしてもらえなくなってきて、先生と話をすることが多くなってきました。切れるとやばくて、逆目になったりする人でした。多分、俺が嫌々、少年部に教えているのがわかったのでしょうが、指導のことや、いろいろな話をしていました。
このぐらいから、先生の気に入らない時や、態度をとっていると、しばかれるようになってきました。最初は、腹を殴られたり、ローキックされたりしてたのですが、私も強くなってきたので、腹を殴られたぐらいでは、平気になってきました。それが、気に入らないみたいで、顔をボコボコに殴られるようになりました。
先生は、稽古が終わってから、焼肉に連れて行ってくれした。そんなに、お金を持っていた訳ではないので、先生にとっては大変な負担だったと思います。本当は、ありがたいことなのですが、私には拷問でした。なぜなら、注文された物は、全て残さず食べないとしばかれるからです。ビールを飲んで焼肉を腹一杯食べた後に、締めに、ご飯をどんぶり3杯頼まれます。残したら、帰ってからボコボコにされます。先生としては、体を大きくする為にしてくれていたみたいなのですが、私は、嫌で仕方がなかったです。仕方がないので、便所に行って、指を入れて無理矢理吐いて、また食べていました。
ある時は、一緒に食事に行って、変なことを言うと、しばかれるので、何もしゃべらないでいたら、信号で車が止まった時に、横から裏拳で鼻をなぐられて、鼻血で血だらけになったり、子供の組手の相手してるときに、私の指導の仕方が気に入らなかったようで、おもいっきり殴られて、鼻の骨が折れて、前歯が折れました。新聞に載せるチラシを考えろと言われて、一応、考えていくのですが、何回手直ししても、OKが貰えず、家に帰らして貰えずに一睡もしないで仕事に行くような日々が続きました。
お前は、やる気がないと言われ、夜中に、10キロ以上ある山の頂上まで走らされたり、一晩中、正座させられたりしました。正座してる時、先生が寝られたので、疲れ切っていた私は、正座したまま、寝ていました。そして、目を開けると、目の前に先生が仁王立ちしていて、ボコボコにされました。
頭を、木刀でかち割られて、五針ぬったり、パイプ椅子でなぐられたりしました。
毎日、ほとんど家に帰らせて貰えなくて、ノイローゼになっていきました。
あまりに辛いので、辞めさせて欲しいと話をすると、仲間を捨てて逃げるのかと、ボコボコにされました。
本当に、地獄でした。
そんな日々が、半年ぐらい続きました。
よくDV夫から離れられない妻の話とかありますが、私も、先生に時々優しくされると、なぜか離れられないような不思議な感じでした。
それでも、どんどん寝不足と、毎日、振るわれる暴力で、精神的におかしくなってきて、『こんなに辛いなら死んだ方がましかな』って思うようになり、死のうとしたんですが、中々、恐ろしくて死ねませんでした。
そんなある日、夜中にムチャクチャにしばかれて、もう本当に限界だと思いました。その時、何かが壊れたような感じがして、今なら100%死ねると思いました。そのままトイレにいって、胴着の帯で首をつろうとして、輪の中に首を入れた瞬間に、何で俺だけが死ななあかんねん、あいつも道連れにしないと気がすまないと思い、それからは、先生を殺す方法を考えてました。
とりあえずムチャクチャ強かったので、車で轢き殺すか、ガソリン撒いて焼き殺すかと、いろいろ考えていました。
そうすると、私のことを見かねた両親と、会社の社長が助け舟を出してくれて、私は、社長のご両親の家にかくまってもらうことになりました。つづく
まあまあ波瀾万丈な人生 13
こうして、空手の稽古に没頭していきました。
2年ぐらいたった頃、先輩が一人辞め、二人辞め、全然来なくなったりして、私より上の先輩達が、稽古に来なくなってきました。仕方がないので、私も少年部の稽古の指導を手伝ったりするようになりました。私の先生は、熱が入って、カッとなるとやりすぎるところがありました。中学生の子供に、ローキックを教えていて、『ちがう』と言って、足を思いっきり振り回して靭帯切ったり、小学一年生ぐらいの子供が、腕立てをできなくて泣いていたら、剣山を体の下にいれて、無理矢理やらせたりしていました。
強くしてやろうという、気持ちはあるみたいなのですが、頭に血がのぼるとムチャクチャ切れます。
そういうので、先輩達が嫌気がさしてしまったのではないかと思っています。
私は、まだ、帯も下の方だったので、そこまで先生と関わることもなかったのですが、この辺りから、先生の付き人のような関係になっていきます。
この辺りから、週三日だった稽古が毎日になり、日曜日も、出稽古にいったり、先生とその地域を統括している道場にいったりと空手付けの毎日でした。
稽古も厳しくなって、先生と組手をして、倒されるとたちあがるまで、蹴り続けられたり、空気イス(膝を曲げて、イスがあるかのように空中に座る姿勢をつづける)これがキツくて、途中でしゃがんでしまうんですが、しゃがんだら思いっきり腹を蹴り上げられて、また、空気イスの姿勢になり、しゃがんだら、また、蹴られるというのを30分とかやらされたり、組手で腹を蹴られ過ぎてオシッコに血が混じっていることもありました。
私は、強くなっていく、自分が嬉しくて、どんな厳しい稽古にも耐えていましたが、自分が強くなることにしか興味がなかったので、子供に教えたりするのは嫌いでした、その時間があるなら、自分の稽古をしたいと思っていました。
そうこうしているうちに、試合で勝てるようになってきました。今まで、何をやっても、中途半端で、トロフィーとかもらったことがありませんでしたが、地方の小さな大会ですが、準優勝して人生で初めてトロフィーをもらいました。本当に嬉しかったです。こうして、益々、私は空手にハマっていきました。以前、私がやられた友達のA君より確実に強くなりましたが、もう復讐なんて興味がなくなっていました。つづく
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まあまあ波瀾万丈な人生 12
私は、この頃に、知り合った友達Aくんと揉めてしまいます。私は、未だにケンカも出来ないようなヘタレ君だったのですが、その友達は、結構、やんちゃな感じの子だったのですが、私はかっこつけて、あんな奴、余裕だたいしたことない、みたいなことを陰で言っていたら、誰かにチクられて、呼び出されてしまい、殴られて、土下座させられてしまいました。殴られたときに、顎の骨にひびがはいってしまい、入院することになりました。呼び出されたときに、怖くて殴り返せなかったことが、本当に情けなくて心から強くなりたいと思いました。
すると、家の近くに、フルコンタクト空手の道場ができました。フルコンタクト空手とは、顔面へのパンチや手での攻撃はなしで、キックや膝蹴りはOKで、顔面より下なら何でもありのルールで、素手素足でガチンコで戦います。本当に、試合とかにでると、殺されるんじゃないかなと思うときもあります。私は、恐ろしかったのですが、強くなりたかったので、見学にいくことにしました。
見学に行くと、体の大きな人が優しい感じでいろいろと教えてくれて、ここだったらやれるかと思い道場に通うことにしました。この大柄な人が私の師匠で、後にえらい目にあわされるのですが、最初は優しかったです。私は、本当に強くなって、Aくんに復讐することだけを考えて稽古していました。
それでも、強くなりたかったので、必死で稽古していました。一年ぐらいたったとき、先生に稽古だけではだめだから、試合にもでなさいと、半ば無理矢理に試合にでることになりました。蹴りや膝蹴りは、本気で顔を狙ってくるので、殺されるんじゃないかと、本当に恐ろしくて、初めての試合の前日は一睡もできなくて、寝ないで試合に臨みました。会場に行くと、全員が強そうに見えて、緊張してガチガチでした。名前が呼ばれ、審判の「はじめ」の合図で、試合が始まりました。私は、怖かったので、とりあえずがむしゃらに攻撃しまくりました。本戦三分の延長二分だったと思うのですが、三分なんて、短いと感じるかもしれませんが、殺されるかもしれないという緊張感の中、むちゃくちゃに攻撃してたら、一分ぐらいで息が上がってしまい、残りの二分は相手にいいように攻撃をされてしまい、私の初試合は判定負けに終わりました。私は、今まで中途半端で努力なんてしたことなかったのですが、厳しい稽古に耐えてきたのに、生まれて初めてこんなに努力したのに、全然、実力も出し切れずに負けたので、本当に、悔しくて、どんどん空手にのめりこんでいきました。
つづく
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まあまあ波瀾万丈な人生 11
このころに、仕事で知り合った人に、サーフィンをしてる人がいて、サーフィンやってみないかと誘われて、モテるのではないかと思って始めることにしました。
そのひとに、中古のボードを売ってもらい、冬もするのかわからないのに、ウエットスーツを作って連れて行ってもらい、サーフィンの基本的なことを教えてもらいました。
やり始めてみると、なかなか難しくて、二年ぐらいは、ただ、パドリングをしにいくような感じでなかなか立つこともできませんでした。サーフィンを始めると、だいたいそこの地元のサーファーが、ローカルというグループを作っていて、ここは、俺らの海だから、入ってくるな、みたいな感じで嫌がらせをされます。サーフィンには、後乗り禁止という暗黙のルールがあって、最初にその波に乗った人間にその波の権利があるので、後に乗った人間はその波を下りないといけないのです。
でも、最初のうちは、慣れないし、うまく波にも乗れません。そして、ローカルのうまい人間が波を独占して、よそ者や、下手な初心者には、乗らせてくれないです。サーフィンを教えてくれた人はローカルだったので、仲間に入れてもらえばよかったのですが、ローカルが嫌いで、つるむのも嫌いだし、前に、元プロサーファーとか言ってるやつに、後乗りして、めちゃくちゃ切れられたことがあったので、そいつらに、へつらうのは嫌だったので、一人でよく海にいっていました。
だいたい海は、お前らのものじゃなくて、みんなのものなのに独占すんなって思っていました。
だから、ほとんど波に乗らしてもらえず、寒い冬や、早朝に行ったりしていました。
冬に海に入るのは、本当に寒くてたき火して、酒飲んで入ったりしてました今思うと危ないなと思います。
そんなある日、大型台風が直撃するという日に、仕事が休みになったので、サーフィンしに行くことにしました。サーフボードをもって、家を出ようとすると、お袋がいて、こんな日にサーフィンしに行くなんて馬鹿や、やめなさい。と引き留められました。私は、この頃、両親が嫌いで、お袋とも、喧嘩ばかりしていたので「波が大きいからおもしろいんじゃ、やかましいくそばばあ。」といって家を出ていきました。
こうして、海にいくと、物凄い波が来ていました、それを見て、よそから来ていたサーファーが、今日はやばいからやめとこうと海にはいるのを辞めました。アホな私は、まだ、立つので精一杯ぐらいの実力なのに、この根性なしがと思いながら海に入っていきました、ホンマにアホでした。海に入ると物凄い波で、揉みくちゃにされて、離岸流で一気に沖合に流されてしまいました。ここで、ボードを捨てて泳ぐか、このまま、救助を待つか、迷いましたが、私は、ボードの上で救助を待つことにしました。
ずーと、流されていると、だんだん陸地が見えなくなって来ました。どんどん不安になってきます。このまま、助からないのではないか、陸地が完全に見えなくなって、追い打ちをかけるように、雨が降ってきました、あまりの寒さウエットスーツの中におしっこをし体を温めました。そうこうしてると、遠くのほうに、船が見えました。私は、残りの体力を振り絞って、思い切り手を振って叫びました。すると、遠くに見えていた船が、遠ざかっていき、姿が見えなくなりました。
私は、もう助からないんじゃないかと思いました。この時、脳裏に浮かんだのが、お袋との最後の会話が、「くそばばあか」と思い、後悔でいっぱいになり、涙がぽろぽろ流れて来ました。本当に、申し訳ない、もっと親孝行しとけばよかったと思い、うつむいて泣いていました。そして、顔を上げると、目の前に遠くに消えていったはずの船が目の前にいて、私は、救助をされました。きっと、あそこで心から反省したから、神様が助けてくれたのではないかと思っています。こうして、病院にそのまま搬送されたのですが、医者に「一日入院しなさい」と言われました。入院するのはいいのですが、私は、ウェットスーツしか着ていなくて、お金も車の中に置いてるので持っていません、仕方がないので、先生に実家に電話してお金を持ってきてもらうように言ってほしいと頼みました。先生が、帰ってくると、何か困ったような顔をしていたので、「どうでした?」と聞くと、お袋に「うちの子じゃありません。」と言われたらしくて、これには参りました。代わりに親父が持ってきてくれました。
退院してから海上保安庁と警察署で二時間ずつ説教されました。もう、サーフィンは、才能ないのでやめることにしました。
後日、両親には、12万もするマッサージチェアをプレゼントしました。
親孝行したい時には、親はなしを痛感した日でした。
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最近、考えていること
最近、よく考えるのですが、なぜ、こんな借金人生になってしまったんだろう。昔の自分は、自分で言うのも、恥ずかしいですが、人間腐ってました。今の自分が出会ったら、ぶんなぐってると思います。
でも、今の自分があるのも、過去の自分があって、そこでたくさん頭を打って考えて、少しずつ何が大切なのか、どんな生き方がいいのか?試行錯誤しながら生きてきたから、今の自分があると思っています。
仏教の教えに、唯心所現というのがあります。自分の世界は、自分の心が作る世界で、心のあり方さえ正しくなればよくなる。という、ような教えです。
でも、俺、結構いいことしてるのに、全然、うまくいかないです。
結局、自分なりには、いい生き方できてると思っても、それは、自分のものさしで、天のものさしでは、全然、足りないみたいです。
おごりですね、自分が不幸になるなんておかしいと、天はそれぐらいでは、全然たりないよと言っているんですね。
私は、輪廻転生を信じていますので、前世に積んできた因果もあると思っています、女性関係で苦労するのは、多分、前世は、すごい美女で男を騙しまくったんじゃないかと思っています。
でも、自分の心で人生が変わるのは本当です。私の人生は変わりました。
だから、もっと精進すれば、もっと良くなると思っています、まだ、良くならないのは努力が足りないんですね。
よーし、もうひと頑張りするか(^_^)
気張らずに、頑張っていきましょう。
まあまあ波瀾万丈な人生 10
こうして、アメリカ行きを断念した、私は働くことにしました、この頃は、家に食費を三万だけいれて、実家に住んでました、一人暮らしをするとわかりますが、生活費は、三万ぐらいでは、全然、足りません。家賃や食費、光熱費と、十万ぐらい必要になってきます。安く生活をさせてもらっていたのに、母親に文句ばかり言っていました。
最初に着いた仕事は、運送屋で、午前中は、二トントラックで、商店への配達をして、午後からは、小荷物の宅配する仕事でした。
まあ、免許も取ったばっかりで、運転も全然下手くそなのに、かっこつけてて、今は煙草を吸っていませんが、この頃は、吸っていて、煙草を吸いながら運転していました、いつも煙草をスピードメーターのところに乗せていて、ハンドルの間からそれをとって吸うみたいなことをしてました。そして、いつものように煙草を取ろうとした瞬間、急に人が出てきて、避けようとハンドルを切ったら、腕がハンドルに挟まって、そのまま溝に落ちてしまいました。少しハンドルをきれば、避けられるような感じだったのに、会社の上司にめっちゃ怒られました。そもそも、何でハンドルの間から、煙草を取っていたのか、取りにくいし他にも置く場所あったんちゃうんかな?って思います。
宅配の方は、新人だったので、物凄い山奥ばっかり、行かされました。今みたいに、携帯電話とかないんで、荷物の送り状を見てゼンリンの地図で調べて行くのですが、家がなかったり、道に迷ったり、本当に担当させられた区域が、民家が一軒もないような山道を延々走っていくと、ポツンと家があったりして、暗くなると、街灯もないんで、怖くなって泣きながら会社に無線を入れて帰らしてもらったりしてました。帰ると、夜、水商売しているバツイチ子持ちのねーちゃんにぼろくそに言われて、泣かされたりしていました。オイル交換して下のネジを閉め忘れて、エンジン潰したりしてましたね。後、本当に申し訳ないんですが、よくカタログショッピングのカタログの配達があったのですが、どうしても見つからない家が何件かあって、山に捨てていました。
こんな感じで、相変わらずダメ男君でした。この仕事も一年ぐらいで辞めてしまいました。つづく